京都の紅葉フォトコンテスト2013

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審査員紹介

粟田神社剣鉾奉賛会 廉屋 皓三

 廉屋皓三氏は粟田神社剣鉾奉賛会の会長を務められています。経営される1923年創業の老舗カドヤ作業服店をおとづれる人の中には、陶芸家の清水六兵衛氏や、デザイナーの山本寛斎氏の姿も。また、ホンダのオートバイCBの初期からのユーザーとして海外にもご友人が多く多彩な趣味を活かされています。
 粟田神社の剣鉾は京都市で最多の剣鉾を持ち、粟田大祭には京都市で最多の6基の剣鉾巡行をされましたが、廉屋会長によると毎週のように練習を重ねた剣鉾の差し手でも一定のリズムで美しい音を鳴らせるまでには、4年前後はかかるそうで、見学自由にした剣鉾差しの練習を、毎月第2・第4水曜に、毎年9月の中旬からは毎晩の集中練習を粟田神社境内でされています。また、2011年には次世代に残るものをと336年ぶりに剣鉾を新調されています。そしてこの場で粟田神社剣鉾奉賛会の会員を募集されています。
(きちっと挨拶のできる方で粟田神社075-551-3154にお申込下さいとのことです)

廉屋 皓三

剣鉾

  • 剣鉾1
  • 剣鉾2
  • 剣鉾3
  • 剣鉾4

 剣鉾は神様のお渡りになる道筋を祓い清め、悪霊を鎮める祭具、祭鉾で京都独自の祭礼習俗で神輿渡御(みこしとぎょ)の先導を務め、祭礼では鉾鉾差しによる巡行が行われます。
 剣鉾は講中(鉾仲間)又は町中(鉾町)で守護され、現在もその形式は変らなく守られています。そのため神輿と違い剣鉾は神社の所有である場合が少なく、鉾飾りも毎年交替で当家(剣鉾を飾る当番の家)で祭られます。
 剣先には真鍮の鋼、額には御神号や神社名・年号などが記され、そして鈴をつけています。長さ7メートル程、重さ30~40kgもの剣鉾は差し袋という棹受けを腰に付けた伝統技能を持つ剣差しが剣先を前後にしならせ練り歩きます。その揺れ、霊力で神を招くという「まねき」で鉾上部に付けられた鈴(りん)が清やかな美しい音色をたて、沿道からは歓声と拍手が湧き起こります。
 平成2年、一乗寺八大神社の剣鉾差し、西院春日神社の剣鉾差し、嵯峨祭の剣鉾差し、梅ケ畑平岡八幡宮の剣鉾差しが京都市指定・登録無形民俗文化財に指定されています。
 平安末期には祭礼が一段と賑やかになり,鎌倉時代になると,鉾や長刀に装飾を付けたものが行列に加わりました。現在に近い形としては、粟田神社(東山区)の大祭などで見られる剣鉾巡行に当時の様子をうかがうことができます。

祇園祭と粟田神社の剣鉾

 京都に夏を告げる7月の祇園祭は平安時代の貞観11年(西暦869年)神泉苑に当時の国の数66本の長さ2丈(6.66m)程の矛(ほこ)を建て、「祇園社」に牛頭天王・婆利采女(はりさいにょ)・八王子(※現在は社名を八坂神社とされた事により神道の素戔嗚尊(すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(やはしらのみこのみこと)に改められています)の神輿三基を送り、疫病退散の祈願が行われた祇園御霊会が始まりです。平安時代の祇園御霊会(現在の祇園祭)を描いた『年中行事絵巻』に祭鉾として、神輿渡御を先導する鉾の様子が描かれたの資料に残っています。
 粟田神社の剣鉾は、長保3年(西暦1001年)の旧暦9月9日の夜、一人の神童が祇園社に現れて神人に「今日より7日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と告げられ、7日後の9月15日にお告げのとおり瑞光が粟田神社に現れ、粟田祭の御神幸が為されこれが始まりとされています。室町時代に、祇園御霊会のないときは 粟田祭の剣鉾を以って代行された千余年の歴史を受け継いでいます。

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