延暦寺(法華総持院東塔)
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延暦寺
延暦寺(大講堂)
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延暦寺(文殊楼)
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秋の延暦寺参道
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延暦寺(根本中堂)
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延暦寺 えんりゃくじ

  • 比叡山延暦寺

伝教大師最澄

最澄は近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれ、12歳で近江国分寺の僧、行表の弟子となった後、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となりました。その後、785年(延暦4)最澄は郷里に近い比叡山に草庵を結び、修行と経典研究の生活に入りました。
3年後、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けたのが延暦寺の始まりです。
桓武天皇が最澄に帰依した事から天皇や貴族の援助を受けるようになり、平安京の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として、次第に栄えるようになりました。最澄没後の824年(弘仁14)に、開創時の年号をとって「延暦寺」の寺額を勅賜されました。
805年(延暦23)、最澄は還学生(短期海外研修生)として唐に渡航します。霊地・天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)、仏隴寺の行満天台教学を学びました。また、越州龍興寺では順暁阿闍梨から密教、禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅を学んでいます。このように、天台教学・戒律・密教・禅の 4つの思想を学び、円密一致といわれる日本天台宗の基礎がつくられました。これら多様な思想を日本に伝えた事が最澄の学問の特色で、後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあると言えます。

806年(延暦25)、日本天台宗の開宗が正式に許可されましたが、比叡山に大乗戒壇を設立するという最澄の念願は生前に果たされる事はありませんでした。当時の日本で僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は、奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺の3箇所しか存在しませんでした。
その為、天台宗が独自に僧の養成をすることは出来ませんでしたが、大乗戒壇を設立するという事は、延暦寺において僧の育成が可能(奈良の旧仏教から完全に独立する事)を意味しました。仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、死後7日目にしてようやく許可されたのでした。

大乗戒壇設立後の比叡山は、平安から鎌倉時代にかけて日本仏教史に残る数々の名僧を輩出します。円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、台密(天台宗の密教)の発展に尽くしました。
後に、比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになり、993年(正暦4)には、円珍派の僧約千名が山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもりました。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした中、法師も武装する事となり、僧兵が現われる事 となります。
比叡山で修行した主な僧

・法然(1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
・栄西(1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
・慈円(1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者、天台座主
・道元(1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
・親鸞(1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
・日蓮(1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖

延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、院政を行い強大な権力を誇った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と残しています。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵達が神輿(当時は神仏混交でした)を担いで強訴し、時の権力者に 対しても言い分を通していました。
また、近隣の寺社を末寺として取込む事で勢力を拡大していきます。その支配の及ぶ地域は「境内」として、朝廷権力 からの「不入権」を承認されていました。この様に、延暦寺はその権威に伴う武力があり、支配地域の財力も持った事で、時の権力者を無視出来る一種の 独立国のような状態にありました。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられていました。

延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かしました。その様な中、初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教です。義教は将軍就任前、義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長でありましたが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立しました。
1435年(永享7)、足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出してこれらを斬首します。これに反発した延暦寺の僧侶達は、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難しました。しかし、義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺し、円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失してしまいました。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工しました。また、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。尚、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し、数千人の僧兵を擁する独立国状態に戻りました。戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、戦国末期には、織田信長が京都周辺を制圧した後、将軍足利義昭と対立。すると、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿う等、反信長の行動を起こしました。1571年(元亀2)、延暦寺の強大な武力と権力を持つ僧が戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達。これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。これにより延暦寺の堂塔は炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されてしまいました。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されていきます。江戸時代になり、徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によって、その勢力を盛り返し、江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移りました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。

ミシュラングリーンガイド

【延暦寺】・【国宝殿】・【根本中堂】・【釈迦堂】が一ツ星に選ばれています。

所在地
〒520-0116
滋賀県大津市坂本本町4220
TEL
077-578-0001
FAX
077-578-0678
正式名
比叡山延暦寺
創建年
788年(延暦7)
山号
比叡山
宗派
天台宗
本尊
薬師如来
開基
最澄
文化財
根本中堂(国宝) 戒壇院・根本中堂回廊・絹本著色天台大師像ほか(国・重要文化財) 坂本里坊庭園(国・名勝) 境内(国・史跡)
料金
東塔・西塔・横川共通券 大人 1000円
時間
9:00~16:00(季節と地区により異なります)
交通アクセス
京阪電車「出町柳」駅→叡山電鉄「八瀬」駅→叡山ケーブル→叡山ロープウェイ→比叡山頂→バス「延暦寺バスセンター」下車(又は山頂から登山道徒歩約30分)
JR「京都」駅より比叡山ドライブバス「延暦寺バスセンター」下車
公式Webサイト
https://www.hieizan.or.jp/

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