時代祭
時代祭は、葵祭、祇園祭と並ぶ「京都三大祭」のひとつで、京都平安神宮の大祭です。 平安神宮の創建と平安遷都1100年を奉祝する行事として、1895年(明治28)に始まりました。第1回目は10月25日に行われ、翌年からは、桓武天皇が794年(延暦13)に長岡京から平安京に都を移された日を“京都の誕生日”として10月22日に行われています。
ご鳳輦に乗った桓武天皇と孝明天皇のご神霊に、京都市街の安泰と繁栄、進化をご覧になっていただき、各時代の行列がご鳳輦のお供をします。行列は明治維新から始まり、次いで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と8つの時代を20の列、牛や馬を含む総勢約2000名で構成され、約2kmもの長さで約3時間にもなります。綿密な時代考証を重ねられた衣装、祭具、調度品は1万2000点にも及び、京の伝統の技をもってそれぞれの時代を細部まで再現されており、その豪華絢爛な行列はまさに“生きた時代絵巻”です。
時代祭の日程
- 15日
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- 13:30
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時代祭宣状授与祭
行列の主な参役に選ばれた約500名の平安講社員が平安神宮のご神前に行列の無事執行を祈願し、宮司より宣状が一人一人に授与されます。
- 15:00
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時代祭奉祝踊り足固め
平安神宮境内で揃いの衣装の女性300名による民踊列が披露されます。
- 21日
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- 10:00
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時代祭前日祭併献花祭
時代祭の無事執行を祈り、献花などが平安神宮で行われます。
- 22日
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- 7:00
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時代祭
総長・奉行が参列し、平安講社を代表して総長が祭文を奏上します。
- 8:00
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神幸祭
2基のご鳳輦に桓武天皇・孝明天皇のご神霊をうつします。
- 9:00
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神幸列進発
神幸列が平安神宮を進発し、10:00頃に京都御所の行在所に到着します。
- 10:30
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行在所祭
崇敬者と市民代表が参列し、神饌講社より神饌が献じられ、白川女の献花奉仕が行われます。
- 12:00
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行列進発
時代行列が京都御所の建礼門前を出発し、平安神宮に向かいます。13時頃には御池寺町、14時頃には平安神宮前で奉祝踊りが披露されます。
- 16:00
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大極殿祭並還幸祭
全行列が到着した後、御鳳輦を大極殿へ奉安し、延暦文官参朝列の三位が代表で祭文を奏上します。続いて御霊代をご鳳輦より本殿に還して祭典を終了します。
- 23日
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- 10:00
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時代祭後日祭
祭典の無事終了を奉告し、祭具を片付け格納されます。
- 10:00
巡行コースマップ
時代祭を支えるのが、京都市全域からなる市民組織「平安講社」です。全市が十社に分けられており、その中で各列の担当が決まっています。なお、各社は複数の学区で構成されていて、配役はその中で輪番で割り振られています。なので、毎年担当する学区もあれば、10年に一度担当する学区もあります。22日の行列当日の朝、衣装をまとった人々がお披露目を兼ね、学区内を廻ります。但し、時間がまちまちで、お披露目巡行を行わない学区もあるようなので、遭遇できればラッキーです。
行列の順番・内容・みどころ
※開催年によって、一部内容が異なる場合がございます。
明治維新時代
維新勤王隊列(いしんきんのうたいれつ)
ピーヒャーラドンドンドンという太鼓・笛で有名な鼓笛隊が先頭を務めます。この音イコール時代祭と思うほどインパクトがあります。明治維新の際、丹波の国北桑田郡山国村(現:京都市右京区京北)の有志が山国隊を組織し、官軍に参加した当時の行装を模したものです。三斎羽織に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋(わらじ)をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿をしています。
幕末志士列(いしんししれつ)
明治維新で活躍した人物が「七卿落(しちきょうおち)」列をはさんで次々と登場します。
- 桂小五郎(かつらこごろう)
- 後の木戸孝允。西郷隆盛、大久保利通とともに維新三傑と称せられた長州藩士です。
- 西郷吉之助(さいごうきちのすけ)
- 後の西郷隆盛。坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、江戸城の無血開城も果たした薩摩藩士です。
- 坂本龍馬(さかもとりょうま)
- 薩長同盟の成立や、大政奉還の立役者となりました。志半ばで暗殺されてしまいました。
- 中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
- 同郷の坂本龍馬とともに維新に奔走しました。
- 高杉晋作(たかすぎしんさく)
- 松下村塾に学んで久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双璧と称せられた長州藩士です。
- 吉田松陰(よしだしょういん)
- 長州藩士。萩の松下村塾で高杉晋作、伊藤博文ら多くの秀才を教育しました。
- 吉村寅太郎(よしむらとらたろう)
- 天誅組を率いて大和に挙兵した土佐藩士です。
- 頼三樹三郎(らいみきさぶろう)
- 儒学者・頼山陽の子で、憂国のこころざし深く、同志と集って盛んに幕政の非を叫びました。
- 梅田雲浜(うめだうんびん)
- 和漢の学に通じ、その徳をもって湖南塾を開き子弟を教え導いた小浜藩士です。
- 橋本左内(はしもとさない)
- 福井藩士で、蘭学医学をおさめ、洋学にも通じて時勢に通じていたため、その才覚を認められて藩政に尽力しました。服装は旅姿となっています。
- 近衛忠熈 (このえただひろ)
- 孝明天皇の左大臣になった後、事変で官を辞して仏門へ入りましたが、後に還俗して関白となりました。ここでは関白の束帯姿で随身と舎人(とねり)を従えています。
- 姉小路公知(あねがこうじきんとも)
- 三條実美とともに勤王派として奔走しました。ここでは衣冠の参朝姿です。
- 三條実萬(さんじょうさねつむ)
- 1824年(文政7)に権大納言、1857年(安政4)に内大臣に任じられました。後に梨木神社の祭神として祀られました。ここでは直衣(のおし)姿です。
- 中山忠能(なかやまただやす)
- 明治天皇御実母の父君。大納言でしたが辞した後に輔弼(ほひつ 天皇の行政を直接助ける職)の大任につき従一位に叙せられました。ここでは小直衣(このおし)姿です。
- 平野国臣(ひらのくにおみ)
- 福岡藩士。攘夷派志士として奔走し、倒幕論を広めましたが、寺田屋事件で失敗し投獄されました。
七卿落(しちきょうおち)
1863年(文久3)の八月十八日の政変で、倒幕計画に破れた七人の公卿が京都から追放された事件。蓑をまとった七卿が、鎧姿の真木和泉ら志士に護られながら長州に落ち延びた様子を表しています。
- 公卿 三條実美(さんじょうさねとみ)
- 公卿 三條西季知(さんじょうにしすえとも)
- 公卿 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)
- 公卿 壬生基修(みぶもとおさ)
- 公卿 四条隆謌(しじょうたかうた)
- 公卿 錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
- 公卿 澤宣嘉(さわのぶよし)
- 志士 真木和泉(まきいずみ)
- 志士 久坂玄瑞(くさかげんずい)
江戸時代
徳川城使上洛列(とくがわじょうしじょうらくれつ)
徳川幕府は朝廷の大切な儀式などの際には必ず城使を上洛させ、皇室に対し礼を厚くしていました。特にご即位の大礼には将軍家名代が、煌びやかな装いをした多数の従者を伴った豪華な行列でした。行列の先頭の槍持、傘持、挾箱持の掛け声や奴のパフォーマンスがみどころで、当時の行列を彷彿とさせます。
江戸時代婦人列(えどじだいふじんれつ)
- 和宮(かずのみや)
- 仁孝天皇の第八皇女で、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室。日本史を通じて、皇女が武家に降嫁し関東下向した、唯一の例です。ここでは、女嬬(お供の人)たちを従え、近世女御装束(十二単)を身にまとった、宮廷内でのお姿を現しています。
- 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)
- 江戸末期の女流歌人で、文筆のみならず、陶芸にも秀でていました。後に尼となり連月と称します。ここでは若きの面影を偲ぶお姿です。
- 中村内蔵助の妻(なかむらくらのすけのつま)
- 富豪の妻。衣装比べの逸話で有名です。婦人たちは色鮮やかな衣装を身にまとい競いましたが、内蔵助の妻は白無垢に最上級の黒羽二重の打掛けという姿で現れました。かわりに侍女たちには他の婦人にも劣らない豪華絢爛な衣装をまとわせ、いっそう内蔵助の妻女を引き立てる演出をしました。
- 玉瀾(ぎょくらん)
- 画家池大雅の妻。画人としても知られ、和歌にも秀でた女性でした。
- 梶(かじ)
- 玉瀾の祖母で、祇園に水茶屋を営んでいました。女流歌人でもあり、歌集「梶の葉」を編みました。
- 吉野太夫(よしのたゆう)
- 美貌に加え、和歌や俳諧、琴、書道、茶道など数々の諸芸に優れており、人々を惹きつけて離さなかったとされています。また、常照寺に山門を寄進しました。ここでは芸妓の頃の衣装です。
- 出雲阿国(いずものおくに)
- 出雲大社の巫女。歌舞伎の創始者といわれています。
婦人列は頭の先から足の先まで当時の女性ファッションや髪型がそのまま伝えられており、見どころの一つです。
有職美容師によって、和官や太夫・お梶さんなどみな地髪を結ってます。「有職美容師」とは朝廷や公家、武家の行事や風俗、装束などの伝統を学び伝えることに携わる美容師のことです。
安土桃山時代
豊公参朝列ほうこうさんちょうれつ
豊臣家の朝廷参上のうち、1596年(慶長元)5月の秀頼の初参内と、翌年9月の元服時の参内などは最も盛んであったと伝えられ、列はその様相を表したものです。秀吉は、びろうの葉で葺き、すだれの装具でまとった最高様式の牛車、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)に乗っている設定で、姿は見えませんが、行列の衣装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通でなく、袴をつけ、太刀も武家風です。また牛童、牛飼などは公家風ですが、徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。
織田公上洛列(おだこうじょうらくれつ)
1568年(永禄11)9月、天下統一のため織田信長が兵を率いて上洛した時の様子を表しています。
- 織田信長(おだのぶなが)
- 1573年に室町幕府を滅ぼし、天下統一を目前に、本能寺の変で明智光秀に討たれてしまいました。
- 羽柴秀吉(はしばひでよし)
- 後の豊臣秀吉。百姓として生まれ、後に織田信長に仕えて頭角を現し、天下統一を果たしました。
- 丹羽長秀(にわながひで)
- 織田信長の家臣。信長から「長」の字を貰い、「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるくらい親しい主従関係でした。
- 滝川一益(たきがわかずます)
- 織田信長の家臣。
- 柴田勝家(しばたかついえ)
- 妻は織田信長の妹のお市の方。
室町時代
室町幕府執政列(むろまちばくふしっせいれつ)
馬上の足利将軍は鎧兜はつけず、烏帽子に金襴の豪華な衣装をまとった軽装の小具足姿で、幕府の執政にあたる三管領・四職に任ぜられる主要氏族が御供衆として従います。また公家・法中・御博士・医師など他の列には見られない人たちが登場します。
室町洛中風俗列(むろまちらくちゅうふうぞくれつ)
16世紀京の町衆によって盛んに催された「風流踊り」を再現しています。風流傘を中心に、子役による囃子方で構成する「中踊り」と、小袖姿で踊る「側踊り」からなっています。当時の風流踊りは男性のみで、奇抜な仮装や妻女の派手な衣裳で着飾って参加しています。この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出し、江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっています。
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室町幕府執政列
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室町洛中風俗列
吉野時代
楠公上洛列(なんこうじょうらくれつ)
1331年(元弘元)、後醍醐天皇が隠岐より還幸される際、上洛を導いた楠木正成一族の行列を表します。楠公一代の盛事と言われたこの様子を表した行列で、多種多様の煌びやかな甲冑や武具が見ものです。
中世婦人列(ちゅうせいふじんれつ)
- 淀君(よどぎみ)
- 豊臣秀吉の側室。ここでは、桃山時代を代表する豪華な打掛に間衣、下着、小袖に刺繍の帯をしめ、扇を持った外出姿です。
- 藤原為家の室(ふじわらためいえのしつ)
- 出家後「阿仏尼(あぶつに)」と称されました。また、「十六夜日記」の著者でもあります。市女笠に虫の垂衣を垂れ、半足袋に草鞋を履き、道中安全を祈るお守袋をかけ、訴状を文杖に差しています。従者は道中に必要な旅道具を入れた唐櫃(からひつ)をかついでいます。
- 静御前(しずかごぜん)
- 源義経の側女。ここでは白拍子時代の姿で水干、単小袖、白の切袴、立烏帽子を身に着け、鼓を持っています。童女(わらわめ)が一人従い、絹傘を差しかけています。
- 大原女(おはらめ)
- 洛北大原の婦人は、頭に薪や炭を載せて京の町へ行商に出ていました。
- 桂女(かつらめ)
- 桂川をこえて鮎や飴を売り京の町に来る販女です。また、巫女の一種でもあり、婚礼や出産など、家の祝い事に訪れることもありました。頭に巻かれた白い布「桂包(かつらづつみ)」は、皇后から頂いた布であったと言われています
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楠公上洛列
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中世婦人列 淀君
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中世婦人列 静御前
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中世婦人列 大原女
鎌倉時代
城南流鏑馬列(じょうなんやぶさめれつ)
流鏑馬は平安朝から行われた騎射の技で、武士のたしなみとして盛んに行われていました。馬場に3カ所の的を立て、馬を走らせながら射ります。1221年(承久3)、後鳥羽天皇が朝廷の権威回復のため、城南離宮で近畿十余国の武士1700名をを召集して行った一場面を表し、列は狩り装束の射手を中心とした5組で構成されています。
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城南流鏑馬列
藤原時代
藤原公卿参朝列(ふじわらくぎょうさんちょうれつ)
平安時代中期以降、藤原氏が最も栄えたころの様子を表した列です。本列のものは夏服の様式です。
平安時代婦人列(へいあんじだいふじんれつ)
「平安時代婦人列」への参列は京都五花街の中から三花街が担当されており、その三花街の芸妓さんが輪番(交代)で参列されています。
- 巴御前(ともえごぜん)
- 源義仲の側女。女武将として義仲と供に戦いました。ここでは、『源平盛衰記』より現したもので、天冠や鎧を身に着け、太刀を帯に着け長刀を持っています。従者は折烏帽子に腹巻を着け小刀を帯び、それぞれ弓と馬杓を持ちます。
- 横笛(よこぶえ)
- 建礼門院の雑仕。滝口時頼と恋に落ちましたが、時頼が出家すると、その後を追って尼になりました。ここでは、出家した時頼を尋ね嵯峨に行ったときの市女笠に袿姿を現しています。
- 常磐御前(ときわごぜん)
- 源義朝の側室であり、牛若(源義経)の母。ここでは、義朝の没後、牛若ら3人の子を連れ六波羅に向かう時の様子を現しています。
- 紫式部(むらさきしきぶ)
- 「源氏物語」の著者。ここでは女官の略装です。
- 清少納言(せいしょうなごん)
- 「枕草子」の著者。ここでは正装女御装束です。
- 紀貫之の女(きのつらゆきのむすめ)
- ここでは、袿(うちき)、単小袖(ひとえこそで)、濃紅の切袴を身にまとい、手に梅の小枝を持っています。
- 小野小町(おののこまち)
- 才色兼備の女流歌人で、絶世の美女だったとされています。ここでの衣装は平安初期の特殊な姿で、当時の神像を参照して作られた装束です。
- 和気広虫(わけのひろむし)
- 慈悲心が深く、多くの孤児の養育に励んだことが伝えられています。ここでは、還俗した時の姿で、扇を持った姿です。男女の弧児2名ずつを従えています。
- 百済王明信(くだらおうみょうしん)
- 桓武天皇の御代に女官長として仕えていました。これは、当時の女官の最高位です。ここでは、唐衣に裳の唐風の装束で翳(さしは)を手にし、侍女を従えています。
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平安時代婦人列 巴御前
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平安時代婦人列 常磐御前
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平安時代婦人列 紫式部と清少納言
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平安時代婦人列 小野小町
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平安時代婦人列 和気広虫
延暦時代
延暦武官行進列(えんりゃくぶかんこうしんれつ)
この列の大将に当たるのは坂上田村麻呂で、東征を終え平安京に凱旋する様子を表しています。きらびやかな金小札の甲冑に、金作りの直刀を差し白葛のヤナグイ(矢を盛って背負う道具)を背負い、金胴の弭(弓の弦をかける部分)金物の槻の丸木弓を従者に持たせ、木地に漆画をほどこした鞍に、金銅の杏葉銜に赤革の鞦(馬の飾り緒で三懸の一つ)の馬に乗り、従者、矛持、弓持を従えています。
延暦文官参朝列(えんりゃくもんがんさんちょうれつ)
延暦時代の公卿諸臣が朝廷に参上する様子を再現した列です。その衣装は朝服といい、本列中の三位は浅紫、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑の袍を着用し、三位は蘇芳色総の三懸(馬の飾り)をつけた馬に乗り錦蓋をおおわせて進みます。全行列中最高位と位置づけられる本列の三位は、平安神宮に還り着いた時、全行列を代表してご鳳輦の前で祭文を奏上します。
神饌講社列(しんせんこうしゃれつ)
時代祭当日の神饌物を奉献する役目の人達です。
前列(ぜんれつ)
御神幸列の前を行くので前列といいます。雅楽の奏者、迦陵頻伽(がりょうびんが)、胡蝶など優美な衣装の行列で多数の狩装束のお供が従います。
神幸列(しんこうれつ)
御賢木を先頭に、ご鳳輦が続き、宮司以下神職が前後につき従ってご神幸されます。先のご鳳輦は孝明天皇、後のご鳳輦は桓武天皇が祀っており、京都の市内をご巡幸になって、市民の安らかな様子を親しくご覧になります。時代祭の中で主たる意義を持つ列です。ご鳳輦の御剣、弓や楯、矛、紫御翳(むらさきのおんさしは)、管御翳、神馬用馬具が見られます。
白川女献花列(しらかわめけんかれつ)
比叡山のすそ野、白川に広がる花畑の花を京で売り歩いていました。平安時代中期から御所に花を届けていたといわれており、本列では神前に供える花を頭に乗せています。
弓箭組列(きゅうせんくみれつ)
源頼政に従い弓矢の技に優れた人達の子孫の人々によって作られた、弓箭組の列です。常日頃より射術を研究しており、桓武天皇平安遷都の際その御列の警護に当ったともいわれ、また明治維新の際には山国隊とともに東北鎮護に当り活躍しました。お供の人々は引立烏帽子に直垂(ひたたれ)を着け、太刀を差し弓箭を携えています。
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延暦武官行進列
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延暦文官参朝列
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神幸列
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白川女献花列
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弓箭組列
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