圓徳院
圓徳院は、北政所ねねが夫の豊臣秀吉没後に建立し、本人もここで余生を送ったところです。元伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移した北庭は、小堀遠州が手を加えたもので、桃山時代の代表的な庭園として当時の原型をそのままに留めています。
戦乱の時代、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。京都には秀吉ゆかりの地が数多く残ります。天下人・豊臣秀吉ゆかりの地を巡ります。
圓徳院は、北政所ねねが夫の豊臣秀吉没後に建立し、本人もここで余生を送ったところです。元伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移した北庭は、小堀遠州が手を加えたもので、桃山時代の代表的な庭園として当時の原型をそのままに留めています。
徒歩 約5分
1606年、秀吉の菩提を弔うために開創した寺です。徳川家康の財政的援助もあり、寺は荘厳を極めました。その後、度重なる火災で多くの堂宇を失いましたが、今も残る開山堂と霊屋、茶室の傘亭、時雨亭、表門、観月台に桃山時代の華麗な面影がみられます。春には桜、秋には紅葉が見事です。
徒歩 市バス「東山安井」まで約8分
市バス 「東山安井」乗車〜「博物館三十三間堂前」下車,徒歩約5分
梵鐘を製作した三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作されました。大仏殿及び大仏は1798年の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失しています。従って本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝えています。釣鐘は有名で、奈良の東大寺・知恩院・方広寺と日本三釣鐘(重要文化財)に指定されています。
徒歩 約3分
1598年に63歳で亡くなった豊臣秀吉は後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られました。また、その麓には廟社が造営され、その偉観は豊国祭礼図屏風にも描かれており壮観を極めました。しかし豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により取り壊され、豊臣秀吉の御霊は新日吉神社に移されました。その後(1880年)この地に社殿が再建され別格官幣社として復興されました。また、廟も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されました。唐門国宝は伏見城の遺構と伝えられ、二条城から南禅寺の金地院を経て現在の地に移築されたもので、その両脇の石灯籠は秀吉思顧の大名が奉献したものです。
徒歩 約12分
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院というお寺と豊臣秀吉が愛息鶴松のために建てた祥雲寺というお寺が関係しています。智積院はもともと紀州根来山大伝法院(根来寺)の塔頭でした。近世に入り、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、根来攻めで全山炎上しました。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて高野山に逃れ、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志しました。十数年後、関ヶ原の戦いの徳川方が勝利した翌年の1601年、家康は豊国神社の付属寺院の土地や建物を玄宥に与え、智積院は復興しました。
その後、1615年に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大。山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とされました。美しい庭園は必見です。
徒歩 約15分
1598年、秀吉は伏見桃山城で63年の生涯を閉じました。遺体は遺言によりここ阿弥陀ケ峰の中腹に葬られ、廟と社殿が建立されましたが、1615年に豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊されて墳墓にお参りする人もなくなりました。しかし1897年に秀吉の300年忌に際し豊国会の手で廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられました。
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