本能寺跡
織田信長が明智光秀の謀反により自害した本能寺がかつてあった場所です。現在寺町御池にある本能寺は光秀の謀反により焼失した後、豊臣秀吉が再建したものです。
戦国武将・織田信長ゆかりの地をめぐります。歴史上の人物の中でも高い人気を誇る織田信長は京都に多くの足跡を残しました。私たちもその足跡を辿ってみましょう。
織田信長が明智光秀の謀反により自害した本能寺がかつてあった場所です。現在寺町御池にある本能寺は光秀の謀反により焼失した後、豊臣秀吉が再建したものです。
徒歩 約5分
安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会です。1578年には織田信長父子が見物したと伝わります。1588年に豊臣秀吉の禁教令で破却されました。室町に石碑があります。
徒歩 地下鉄東西線「烏丸御池」駅まで約10分
地下鉄東西線 「烏丸御池」駅乗車〜「京都市役所前」下車,徒歩約2分
1582年に織田信長が明智光秀によって襲撃 (本能寺の変) され自刃した寺として有名です。境内には織田信長と家臣たち森蘭丸らの供養塔があります。
市バス 「京都市役所前」乗車〜「烏丸丸太町」下車,約6分
旧二条城は室町幕府15代将軍足利義昭の将軍座所として1569年に織田信長により築かれました。二重の堀や三重の天主を備え、四方に石垣が高く積まれ、金銀を散りばめた内装、庭には泉や築山があった城郭だったそうです。義昭が信長に追放された後は、東宮誠仁親王を迎え入れられ二条御所として使われていました。室町幕府の滅亡と共に廃城となり、1576年に取り壊されました。
徒歩 約25分
1555年、玉誉清玉が近江国坂本に創建したのがこの寺の始まりと言われいます。その後清玉が織田信長の帰依を得て、上京今出川大宮に移転しました。本能寺で討たれた信長とその子・信忠の遺骨を清玉が持ち帰り、阿弥陀寺に葬ったそうです。信長・信忠親子の墓の他にも森蘭丸の墓などもあります。1585年に豊臣秀吉の寺町造成に伴い現在地に移転しました。
徒歩 地下鉄「今出川」駅まで約10分
地下鉄 「今出川」駅乗車〜「鞍馬口」駅下車、西へ徒歩約4分
織田信長の一番の定宿であり、信長が京都に来た20数回のうち18回の宿泊をここ妙覚寺でしています。天正十年(1582)に本能寺の変が勃発した際は、信長の嫡男信忠がここに宿泊していました。
また、千利休の茶会が催されるなど大いに興隆した寺院です。
徒歩 約3分
鎌倉時代後期、元亨元年(1321)に創建された京都における日蓮宗最初の寺院です。応仁の乱や宗派間の紛争によりたびたびの移転をしてきましたが、本能寺の変後は豊臣秀吉が京都の宿所としていました。これは妙覚寺を宿所にしていた織田信長を意識したものと考えられているそうです。
徒歩 市バス「堀川寺ノ内」まで約5分
市バス 「堀川寺ノ内」乗車〜「建勲神社前」下車,徒歩約7分
戦国時代に天下統一を成した織田信長の偉勲を称え、明治2年に明治天皇が創建した神社です。現在神社がある船岡山は、平安京の四神相応の玄武に位置しており、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地です。織田信長の業績にちなんで、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされ、広く崇敬されています。
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