琳派400年 京都の琳派ゆかりの地をたずねて

琳派四〇〇年

琳派(りんぱ)は、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる美術家・工芸家やその作品のことを指します。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始、尾形光琳・乾山兄弟によって発展し、様々な芸術家の手によって江戸に定着していったと言われています。

琳派は大和絵の伝統を基盤としており、特色としては、豊かな装飾性・デザイン性、絵画を中心として書や工芸といった様々な芸術分野、家系による継承ではなく、私淑によって断続的に継承されてきた点、などがあります。琳派では時間も場所も身分も遠く離れた人々によって受け継がれたのは、他に類を見ない特色です。同じようなテーマや図柄、独特の技法を意識的に選択・踏襲することで琳派としての主体性を保持する一方、それぞれの絵師独自の発見や解釈が加わり昇華され、単なる模倣ではない新たな芸術を生み出し受け継がれてきました。背景に金箔や銀箔を用いたり、大胆な構図、型紙による繰り返し、たらしこみの技法などに琳派の特色を見ることが出来ます。花木・草花をテーマにした作品が多いですが、物語絵の人物画、鳥獣、山水、風月を表現した作品もあります。

琳派は日本画だけににとどまらずヨーロッパの印象派などにも大きな影響を与えているといわれています。「風神雷神図」は数多くの画家により描かれており、それぞれの作品の比較の対象にされています。

1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峯の土地を拝領したのを琳派誕生と考えると、2015年は琳派が生まれて400年の記念の年ということになります。

主な琳派の画家・芸術家

本阿弥光悦(1558-1637 | 出生地:京都)

「寛永の三筆」の一人として位置づけられるほどの書家としてや、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わった芸術家として有名です。

光悦は1615年に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や職人などの法華宗徒仲間を引き連れて鷹峯に移住。光悦村(芸術村)を作りました。光悦の死後、光悦の住んだ屋敷は光悦寺となっており、光悦の墓地も光悦寺にあります。

俵谷宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者と考えられており、後世の日本文化に与えた影響は大きいといわれています。

俵屋宗達

本阿弥光悦、尾形光琳とならび琳派の創始者と考えられています。近世初期の大画家ですが知名度の高さに比べ、伝記には不明な点が多く、生没年もわかっていません。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようです。

かの有名な「風神雷神図」のような装飾的大画面のほかにも、水墨画も有名で、「蓮池水禽(れんちすいきん)図」は生乾きの水墨にさらに濃淡の異なる墨を含ませ「にじみ」による偶然の効果を狙った、いわゆる「たらしこみ」の技法が用いられており、この技法は琳派独特の特色の一つです。

尾形光琳(1658-1716 | 出生地:京都)

琳派の始祖の一人といわれており、江戸時代中期を代表する画家です。その非凡な感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の芸術に与えた影響は大きいといわれます。

光琳と並び称される俵屋宗達とは直接的な師弟関係はありませんが、光琳の絵には「風神雷神図」「槙楓図」のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあり、光琳が宗達に学ぶ意識があったことは確かなようです。また雪村の絵にも感銘を受けたらしく、模写した作品が何点か残っています。

尾形乾山(1663-1743 | 出生地:京都)

尾形光琳の実弟です。1689年に仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励みました。この仁和寺門前には陶工の野々村仁清が住んでおり、乾山は仁清から本格的に陶芸を学んだようです。

尾形兄弟に目をかけていた二条綱平から京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えられ、ここに窯を開きました。その場所が都の北西(乾)の方角にあたることから「乾山」と号したそうです。乾山が器を作り、光琳が絵を入れた兄弟の合作も数多く残されています。

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