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歩いて楽しむ三十三間堂界隈

国家安康の鐘でのある方広寺をスタートし、豊臣秀吉ゆかりの豊国神社、京都国立博物館、1000体の観音立像が並ぶ三十三間堂、血天井の養源院、「みがわりさん」で有名な法住寺を巡ります。

方広寺

梵鐘を製作した三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作されました。大仏殿及び大仏は1798年の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失しています。従って本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝えています。釣鐘は有名で、奈良の東大寺・知恩院・方広寺と日本三釣鐘(重要文化財)に指定されています。

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方広寺
Photo by ichi

徒歩 徒歩 約2分

豊国神社

1598年に亡くなった豊臣秀吉は後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られました。また、その麓には廟社が造営され、その偉観は豊国祭礼図屏風にも描かれており壮観を極めました。
しかし豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により取り壊され、豊臣秀吉の御霊は新日吉神社に移されました。その後(1880年)この地に社殿が再建され別格官幣社として復興されました。また、廟も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されました。唐門国宝は伏見城の遺構と伝えられ、二条城から南禅寺の金地院を経て現在の地に移築されたもので、その両脇の石灯籠は秀吉思顧の大名が奉献したものです。

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豊国神社

徒歩 徒歩 約8分

京都国立博物館 明治古都館

大和大路通に面した正門から 噴水、ロダンの考える人 、本館と左右対称に配置されています。
バロック様式の本館正面には仏教守護の天部、毘首羯磨(びしゅかつま)、伎芸天(ぎげいてん)という美術建築、芸能の仏さまがギリシャ彫刻のような風貌で横たわり、玄関ホール、中央ホールのほか、大小10室の陳列室があり、平成26年(2014)の平成知新館が開館に伴い、明治古都館として年に数回、特別な展覧会が開催されています。

また京都国立博物館・多聞天立像・源頼朝像・平重盛像・紙本著色餓鬼草紙がミシュラングリーンガイドの三ツ星に選ばれています。

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京都国立博物館 明治古都館
Photo by 山田 義博

徒歩 徒歩 約6分

三十三間堂

1164年(長寛2)鳥辺山麗(現、阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進しました。約80年後に焼失してしまうのですが、すぐに1266年(文永3)に再建されました。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されています。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120m。正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には1001体もの観音像が祀られています。また見落としがちですが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物です。

三十三間堂・千手観音坐像・千体千手観音立像・二十八部衆がミシュラングリーンガイド三ツ星に選ばれています。

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三十三間堂
Photo by kota

徒歩 徒歩 約3分

養源院

三十三間堂の東側にある養源院は、本堂の正面と左右の廊下の天井は伏見城が落城した際、家康から同城の守備を命じられた鳥居元忠以下の将士が自刃した時の板間を用いたものと言われ、俗に血天井と呼ばれています。
また、浅井家ゆかりの寺院でもあり、茶々(淀君)が父浅井長政の菩提を弔うため創建し、「養源院」の名は長政の法名からつけられました。その後落雷に遭い、焼失しますが、二代将軍徳川秀忠の正室になった三女お江によって再建され、今に至っています。お江の肖像画があります。

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養源院
Photo by kota

徒歩 徒歩 約2分

法住寺

本尊の「身代不動明王」が祀られており、あらゆる災厄から身代わりとなって護ってくれるといわれ、「みがわりさん」と呼ばれ古くから親しまれています。江戸時代には赤穂浪士大石内蔵助が討ち入り前に身代不動明王に参拝したと言われており、その縁から堂内には四十七士の木像が安置されています。
また、サザエさんの作者長谷川町子さんが、生前、法住寺を訪れ先代住職とお話された縁で、遺骨が安置されています。

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プレイス

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