琳派400年 京都のゆかりの地をたずねて
(2014.09.02作成)
琳派とは
琳派四〇〇年
琳派(りんぱ)は、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる美術家・工芸家やその作品のことを指します。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始、尾形光琳・乾山兄弟によって発展し、様々な芸術家の手によって江戸に定着していったと言われています。
琳派は大和絵の伝統を基盤としており、特色としては、豊かな装飾性・デザイン性、絵画を中心として書や工芸といった様々な芸術分野、家系による継承ではなく、私淑によって断続的に継承されてきた点、などがあります。琳派では時間も場所も身分も遠く離れた人々によって受け継がれたのは、他に類を見ない特色です。同じようなテーマや図柄、独特の技法を意識的に選択・踏襲することで琳派としての主体性を保持する一方、それぞれの絵師独自の発見や解釈が加わり昇華され、単なる模倣ではない新たな芸術を生み出し受け継がれてきました。背景に金箔や銀箔を用いたり、大胆な構図、型紙による繰り返し、たらしこみの技法などに琳派の特色を見ることが出来ます。花木・草花をテーマにした作品が多いですが、物語絵の人物画、鳥獣、山水、風月を表現した作品もあります。
琳派は日本画だけににとどまらずヨーロッパの印象派などにも大きな影響を与えているといわれています。「風神雷神図」は数多くの画家により描かれており、それぞれの作品の比較の対象にされています。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峯の土地を拝領したのを琳派誕生と考えると、2015年は琳派が生まれて400年の記念の年ということになります。
主な琳派の画家・芸術家
本阿弥光悦(1558-1637 | 出生地:京都)
「寛永の三筆」の一人として位置づけられるほどの書家としてや、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わった芸術家として有名です。
光悦は1615年に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や職人などの法華宗徒仲間を引き連れて鷹峯に移住。光悦村(芸術村)を作りました。光悦の死後、光悦の住んだ屋敷は光悦寺となっており、光悦の墓地も光悦寺にあります。
俵谷宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者と考えられており、後世の日本文化に与えた影響は大きいといわれています。
俵屋宗達
本阿弥光悦、尾形光琳とならび琳派の創始者と考えられています。近世初期の大画家ですが知名度の高さに比べ、伝記には不明な点が多く、生没年もわかっていません。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようです。
かの有名な「風神雷神図」のような装飾的大画面のほかにも、水墨画も有名で、「蓮池水禽(れんちすいきん)図」は生乾きの水墨にさらに濃淡の異なる墨を含ませ「にじみ」による偶然の効果を狙った、いわゆる「たらしこみ」の技法が用いられており、この技法は琳派独特の特色の一つです。
尾形光琳(1658-1716 | 出生地:京都)
琳派の始祖の一人といわれており、江戸時代中期を代表する画家です。その非凡な感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の芸術に与えた影響は大きいといわれます。
光琳と並び称される俵屋宗達とは直接的な師弟関係はありませんが、光琳の絵には「風神雷神図」「槙楓図」のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあり、光琳が宗達に学ぶ意識があったことは確かなようです。また雪村の絵にも感銘を受けたらしく、模写した作品が何点か残っています。
尾形乾山(1663-1743 | 出生地:京都)
尾形光琳の実弟です。1689年に仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励みました。この仁和寺門前には陶工の野々村仁清が住んでおり、乾山は仁清から本格的に陶芸を学んだようです。
尾形兄弟に目をかけていた二条綱平から京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えられ、ここに窯を開きました。その場所が都の北西(乾)の方角にあたることから「乾山」と号したそうです。乾山が器を作り、光琳が絵を入れた兄弟の合作も数多く残されています。
琳派をめぐる京の旅
京都には琳派ゆかりの地が数多くあります。琳派のはじまりの地と言っても良い光悦村のあった鷹峯の光悦寺と常照皇寺、光悦がデザインした庭園のある本法寺、宗達の代表作が所蔵されている建仁寺など…。京都にお越しになった際には琳派ゆかりの地やその界隈を回ってみるのも面白いのではないでしょうか?KYOTOdesignでは琳派ゆかりの地が入ったコースをご紹介しています。旅のご参考になれば幸いです。
琳派ゆかりの地
光悦寺
琳派の祖・本阿弥光悦が、徳川家康よりこの地を与えられ、一族や工匠等と供に移り住み芸術郷を築きました。光悦は、刀剣鑑定のほかにも、多くの才能に優れており、芸術指導者としても活躍しました。光悦が亡くなった後に、本阿弥家の位牌堂は本法寺の日慈上人によって寺に改められました。
三千院
自然の地形を巧みに利用した境内には、豊臣秀吉の建立と伝える客殿や宸殿が建ち、有清園・聚碧園と呼ばれる2つの美しい庭園があります。神坂雪佳作の御所車衝立を円融蔵宝物館で鑑賞することができます。
醍醐寺
醍醐の桜として有名で、豊臣秀吉もここで花見をしたといわれています。また宗達の作品が多く収められていて、醍醐寺と宗達の深い繋がりを伺うことが出来ます。2015年10月1日から2016年2月28日まで「宗達とその時代」をテーマに企画展が実施されます。※参拝不可の日が生じる場合があるので要問合せ
善峯寺
桜と紅葉の名所として有名です。琳派400年に合わせて2015年10月・11月の土日祝日と11月10日~12月6日まで「神坂雪佳企画展-近代琳派の画家-」が開催されます。
妙顕寺
京都における法華宗を成す寺院で、発展に大きく寄与した寺院です。境内にある3つの庭の中の1つ「光琳曲水の庭」は尾形光琳の絵画を基に作られたといわれています。また、塔中の泉妙院には光琳とその実弟尾形乾山のお墓があります。(門の外から見ることが出来ます。)
琳派ゆかりの地とその界隈を巡る観光コース
本阿弥光悦ゆかりの地、鷹峯界隈をめぐる
photo by hiro
日本にとどまらず、世界の芸術に大きな影響を与えたといわれる琳派。その祖とも言われる本阿弥光悦のゆかりの地、鷹峯を巡ります。
東山七条界隈の国宝・重要文化財をめぐる
photo by 沙都
東山七条の界隈の重要文化財、国宝をめぐります。血天井で有名な養源院には琳派の大画家俵谷宗達が描いた襖絵「松図十二面」や白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵があります。
関連レポート
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大虚山光悦寺(たいきょざんこうえつじ)がある洛北鷹ヶ峰の地は、元和元年(1615年)に徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が移り住んだ所です。本阿弥光悦の生家である本阿弥家は、室町時代から刀剣を鑑定してきた名家であったことから、光悦は幼いころから家業を通して、あらゆる工芸(木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿)知識を身に付けたそうです。その後、父が分家となり家業から自由の身になった光悦は、工芸品以外にも書画や能面、庭など、さまざまな芸術作品を創造するようになったといわれています。家康から九万坪ともいわれる鷹ヶ峰の地を与えられた光悦は、ここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住み、一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったそうです。現在の光悦寺は、本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌堂(位牌所)があった場所といわれています。
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