平清盛 京都ゆかりの地をたどる
平清盛とは
1118年(元永1)、伊勢産品(現・三重県津市)で生まれました。
実母は、祇園女御とも祇園女御の妹とも言われ定かではありません。また、実父は白河法皇ですが、平忠盛によって育てられました。幼い頃は夜泣きがひどく、それを聞いた白河法皇が「夜泣きすと ただもりたてよ 末の代に 清く盛ふる こともこそあれ」と歌ったことから「清盛」と名づけられました。
その後清盛は、武士の子でありながら始めて政権を握り、太政大臣までのぼりつめ、平氏全盛の時代を確立します。しかし、それは長くは続かず、反平氏勢力の拡大により滅亡に追いやられます。清盛は源頼朝を討とうとしますが、その直前に熱病にかかり64歳で亡くなりました。
「平家物語」において、清盛は、傲慢で粗暴な人物として描かれていますが、実は、思いやりのある温厚な性格の持ち主だったと伝えられています。
平清盛 略年譜
- 1118年 (元永元年)
- 1歳
- 出生。平忠盛に育てられる。
- 1120年 (保安元年)
- 3歳
- 母死去。
- 1129年 (大治4年)
- 12歳
- 従五位下に任ぜられる。
- 1146年 (久安2年)
- 29歳
- 安芸守になり、瀬戸内の制海権を得る。
- 1147年 (久安3年)
- 30歳
- 祇園社で乱闘事件を起こす。
- 1153年 (仁平3年)
- 36歳
- 父・忠盛死去。平家の棟梁を継ぐ。
- 1156年(保元元年)
- 39歳
- 保元の乱。後白河天皇側につき、源為義らを討つ。勲功章で播磨守となる。
- 1159年(平治元年)
- 42歳
- 平治の乱。源義朝と戦い勝利。武士の王となる。
- 1165年(永万元年)
- 48歳
- 二条天皇の崩御に伴い、後白河上皇の院政始まる。
- 1168年(仁安3年)
- 51歳
- 熱病を患い、生死の境をさまよう。出家する。
- 1170年(嘉応2年)
- 53歳
- 後白河を福原に迎え、中国・宋の特使と面会。
- 1180年(治承4年)
- 63歳
- 以仁王(もちひとおう/後白河の子)の挙兵を未然に鎮圧。京から福原への遷都を強行する。しかし6か月で還都。頼朝が挙兵。富士川の戦いで平家軍大敗。
- 1181年(治承5年)
- 64歳
- 熱病に倒れ死去。
まだまだあります!平清盛ゆかりの寺社
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八坂神社
清盛らが祇園社に赴く際に神人と揉め、放った矢が宝殿に当たるという祇園社乱闘事件があった場所です。
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高松神明神社
保元の乱の際、後白河天皇率いる清盛や源義朝らが、ここで集まり、源為義らを討ちました。
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新熊野神社
後白河上皇が清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するために造営しました。
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三十三間堂(蓮華寺)
後白河天皇が清盛に命じて創建しました。
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厳島神社(京都御苑内)
清盛が祇園女御のために安芸から勧請しました。祇園女御を祀っています。
平家・清盛ゆかり人物の地をたどる
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長講堂
後白河上皇の持仏堂です。御影堂には、後白河法皇木像が安置されています。
後白河上皇
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法住寺(竜宮門)
三十三間堂の東にあります。院政期にはこの寺を中心に宮廷「法住寺殿」が営まれました。
後白河上皇
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成菩提院陵
白河天皇は御三条天皇の第一皇子で、院政を始めた事で知られています。ここはその天皇陵です。
(京都市伏見区竹田浄菩提院町)白河天皇
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三条東殿遺址
白河天皇の院御所です。また、平治の乱の始まりの場所でもあります。
(京都市中京区姉小路通烏丸東入南側)白河上皇
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長楽寺
清盛の娘でもあり、高倉天皇の正室であった建礼門院が出家したお寺です。境内の供養塔には、遺髪が納められています。
建礼門院
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寂光院
建礼門院が、長楽寺から移り住み余生を過ごしたお寺です。
建礼門院
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安楽寿院
院政の舞台になった鳥羽離宮の跡にあり、鳥羽上皇が営んだ仏堂です。
(京都市伏見区竹田中内畑町)鳥羽上皇
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安楽寿院陵
安楽寿院の西に位置しており、鳥羽天皇の御陵です。
(京都市伏見区竹田中内畑町)鳥羽天皇
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院政の地
白河上皇・鳥羽上皇の院政の地です。
(京都市伏見区竹田浄菩提院町)白河上皇・鳥羽上皇
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滝口寺
境内に、平家一門の供養塔があるほか、清盛の長男重盛を祀った小松堂があります。
平家
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